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香水の歴史を知って心も知識も豊かに



香水って、いつ出来たのか知っていますか?
自分たちの周りにあるものは何気なく存在しているものが多いのですが調べてみると深い歴史があります。

香水もそのひとつ。

 

香水

 

香水の歴史を紹介します。

香水がそもそも生まれた理由は、現代のように異性にアピールするためのものではなかったようです。

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香水誕生秘話 オシャレのためではなかった?

どういった形で香水が生まれたのかというと、宗教に関して使用される、もしくは医薬品の役割を持っていたのです。

香りは人間の本能に鋭く訴え、人間は目に見えなくても感じることができるものを神聖化する傾向があります。
ある香りを嗅ぐと病気を治すことが出来る事を人間は知っていたようです。

 

 

国力にも深い関係がある香水

多くの地域や国が存在するにも関わらず、香水は文化が栄えた国家でしか出来ないものでした。
古代の香水の作り方は企業秘密とされているものが多く、文献に残っているものはあまりありませんが、 古代エジプトのプトレマイオス朝時代のレリーフに作り方が残っています。
この香水を使用していたのが、世界三大美女のクレオパトラでした。
クレオパトラは当時、交易によってエジプトでは手に入りにくい香料の成分を入手していました。
ムスクや若高と言った動物由来の香り、バラといった女性の心をうっとりさせる花の香、蜂蜜などの現代でも贅沢な成分をふんだんに使用して、香水を作っていたのです。

 

 

クレオパトラは自分専用の香水を作らせていた

クレオパトラの香りはキフィーと呼ばれており、バラやゆりといった香りの花をぶどう酒でつけて調合をしたものでした。
商品の一部は交易の商品になっていたのですが、クレオパトラ専用の香りはバラの調合量が違ったといいます。

クレオパトラは特にバラの香りが好きだったとされています。

いつもクレオパトラは自分の歩く部分や場所に薔薇を敷き詰めてその香りを楽しんでいたといいます。
また、船にもバラの香りを染み込ませていたという言い伝えがあるほどです。

ローマのアントニウスやシーザーを虜にさせた要因のひとつが「香り」との話もあります。
香りが歴史を変えたとは言い切れませんが、香りがクレオパトラの魅力を大きくしたのは間違いが無いと思われます。

 

 

クレオパトラの香りは女王の香りにふさわしかった

その香水の香りは、言葉であらわすことが出来ないほどで、正に女王様の香り。 現在でもその香りを再現し商品で販売されているほどです。
しかし香りの再現は現在でも難しく、材料を揃えるだけでもとてもに高価。
一時期、香りの再現のために合成香料を使用しないといけないのではないかというくらい難しかったとされていたのですが、試行錯誤の結果、天然成分でクレオパトラが使用したとされる香りを再現した香水が数多く販売されるようになりました。

 

その香りの特徴は植物の香り。女性の魅力を引き出すような花の甘い香りです。
世界で名を馳せたエジプトの香りは、現在でも多くの女性を魅了し続けています。
そして、クレオパトラは現在でも美女の代名詞となっています。
女性らしさを持ちつつも女性の魅力を大いに引き出す方法を知っていた彼女は正に香水の価値を知っていた女王様なのです。

 

香りは神事に使われていた

香料が香水になるまで、人々はただひとつの香りしか神様に捧げることしかできませんでした。
その理由は、香料を香水として抽出するには膨大な量の原料と蒸留釜が必要で、複数の香りを抽出するのが困難だったからです。
木材を燃やすだけで香りを神様に届けることが出来るようになると、この原料は王国をあげて保護され密輸禁止の措置が取られました。
やがて、エジプト周辺やローマの国々の侵略や発展によって、国々で交易が始まるようになると、様々な植物の原料を手に入れることが出来るようになりました。

 

 

香水の歴史に「花」が加わる

実際に香水にして使用された香りは花の成分です。
花の香りは燃やすと成分が飛んでしまうため、抽出して身につけるようにしたものが香水の原型といいます。

スプレー瓶といった容器が無かったため、当時の香水は長期保存ができるような練り香水やオイルといったものでした。
つまり、香水が出来る前にエッセンシャルオイルが出来た訳です。

 

 

香水は一般市民には手の届かない存在

エジプトのクレオパトラ時代は、香りを分離・抽出してオイルや香水を身につけることが出来たものの、あまりにも量が少なかったため、香水を使えるのは女王だけでした。
香水が一般市民に広がるまでには、非常に長い歴史が必要となってきます。

 

 

市民に広がったことで急速に発展した香水文化

市民階級の権力が大きく発展して貴族文化が市民に広がっていくと、香水を気軽に使用する文化が発展してきます。
普段用に香水を使用したいと思うように人間の意識が変ったのです。
この需要を受けて、普段使いしても刺激の少ない香りや、あらゆる香りの成分を混ぜる技術の確立も必要となってきました。
また、香水を入れるガラス瓶やスプレーの容器の開発も進められてきました。
そして、香水の成分に合成香料の使用が可能になったことも安価で常に香水を使用できるようになった大きな一因と考えられています。

 

 

香水の歴史を知ってもっと身近な存在に

男性女性関係なく香水をつける文化の発展には多くの物質とドラマと人物が関係しているのです。
香水を身につける時にこうした歴史ロマンを知っておくと、海外旅行に行った時に、その香りや香水に親しみを持つことが出来ます。
現在100均でも販売されている香水ですが、ここまで安価になるには1000年以上の時間がかかっているのです。

 

科学の発展に貢献したイブン・シーナ

イブン・シーナは現在の科学の発展に大きな貢献をした人です。歴史の教科書にも少しだけ載っています。
彼の研究分野は、哲学、論理学、形而上学といった心や物の考え方や思考に関することですが、一番貢献したのは医学の進歩分野でした。
彼が生まれたのは、サーマーン朝というイスラムの文化が大いに発展していた頃です。
幼少期から文学の才能があり、10歳でその秀才ぶりを発揮しました。基礎的な国語の文学や哲学を暗唱したのです。
その後算術を学び、当時の学問の重要な位置を占める、天文学、論理学を学んでいきました。
そうして彼が行き着いたのは医学でした。

 

 

ギリシア医学に触れたことが幸いした

彼は、医学最高の師と呼ばれたジュルジャーンという医師に師事しました。
ジュルジャーンはギリシア医学の権威でした。
当時のヨーロッパは消毒や衛生管理に関して知識が乏しいものだったので、イブン・シーナの師がギリシア医学者であったことは非常に幸運でした。
無料で患者を診察している中で、香りの使用が患者の治療に有効的であることに気づけたからです。

 

 

香水の蒸留法を確立させたのもイブン・シーナ

イブン・シーナは、医師として名を馳せるようになって以後様々な分野の科学者と交流を行います。
その中で、当時アラビヤで少量しか出来なかった香水の蒸留法を確立させました。
人類で初めてバラ水を作ったのです。

 

そのバラ水の作り方は、イスラム圏内で確立されたにも関わらず、香りの素晴らしさから当時の多くの国々に広まっていくこととなりました。
香りの素晴らしさや治療法がいかに素晴らしかったかということを大いに示していると考えていいでしょう。
イブン・シーナの業績はこれだけで留まりません。

彼は自分の研究や成果を書物にまとめて残しています。
それがかの有名な医学載範。17世紀頃までバイブルとされた医学書です。

大変革命的な書物でその結果、香水を用いた治療法が確立されたのです。

 

世界最古の薬局はイタリア

世界最古の薬局はイタリアのフィレンツェにあります。薬局名は、サンタ・マリア・ノヴェッラ。
起源は、13世紀にさかのぼります。
ドミニコの修道院の修道僧が自分たちや病気の人達のために薬草を栽培し、看病に使用していたことが始まりでした。
やがてその効果が評判となり、修道院は教会になったのです。

 

 

丁寧な製法で人気になった薬

サンタ・マリア・ノヴェッラは薬草調合で名を馳せ、売上金で教会を修理していたのだそうです。
1612年にフィレンツェ街の統治者から薬局として認可ができました。
一般に商品を販売するようになったところ大きな評判となり、ヨーロッパ中の貴族が顧客リストにのるようになったのです。
自然の香りをそこねない丁寧な処方や作成技術、保存方法が優れていたことが人気の理由だったそうです。

 

 

王家御用達にまで発展

その結果、メディチ家というヨーロッパの名家から王家御用として名前が付くようになりました。
王家御用とは今で言う天皇御用達みたいなもので、商品に関してお墨付きをいただくこと。

 

当時のサンタ・マリア・ノヴェッラでは、香水に関しても非常に高度な技術を持っていました。
いかに熱を加えないで香りの成分を取り出すことができるかといったデリケートな部分に関しても、非常に高度な技術を持っていたのです。
そんな中、メディチ家からフランス王家のアンリ2世に嫁ぐカテリーナ・ディ・メディチのために新たに香水を作って欲しいという依頼がました。

 

 

困難な王家からの依頼にどう応えたのか?

この香水の考案は非常に困難を極めたと言い伝えられています。
実際に香水を作ったのはケルンの土地に住む薬剤師とされています。
その香水は「アックア・デッラ・レジーナ(王妃の水)」と言います。
この香りを持ってカテリーナ・ディ・メディチはフランスに嫁いでいったのです。

 

当時のフランスは香りに関して文化の発展がありませんでした。
香水に関して現在ほど専門的な職業がいたわけでない状態だったのです。
当然、カテリーナ・ディ・メディチが身につけた香りにフランスの貴族は仰天します。
なんと素晴らしい香り!!と、評価はたちまちうなぎ上りになったのです。
フランス貴族の多くが彼女の持つような香りを身につけたいと考えると、必然的にフランスでもこんな香水が作れないかと考える人が増えてきます。

 

 

フランス香水文化が発展するきっかけに

その結果、フランスでも香水を作る設備や香りを専門に扱う調香師といった職業の人気が出てきました。
つまり、サンタ・マリア・ノヴェッラはイタリアからフランスに香水の文化を植えつけた商品を扱う企業となったのです。
現在でもその香りの処方は一切替わることなく、販売されています。
香水並みの香りのする石鹸やポプリ、クリームとなども商品も売られています。
香りによって修道士たちが人を救いたいという思いは国境を超えた文化形成にも一役買っていたのです。
ヨーロッパに於ける香水の歴史は、その後フランスを発信地として広まることになります。

 

ココシャネルの偉業

有名な一例を紹介すると、ドレスに黒を使用したほうが魅力的と考えたのは彼女。
彼女のドレスのデザインは、今や4正装の代名詞となっています。
他にも、彼女が作ったスーツは現在の女性の社会進出に大きな貢献を果たしました。

ですが、洋服で名を馳せるきっかけになったのが香水の開発だという事実はあまり知られていません。

 

 

シャネルといえば?あの香水!

シャネルは香水で非常に有名なブランドを持っています。
女性なら誰でも知っているであろう、シャネルのNo.5です。
この香水は、現在でも世界で一番売れている香水なのです。

 

この香水は何が革命的だったのかというと、合成香料を使用した世界で初の香水ということ。
合成香料は19世紀から20世紀初頭に盛んに開発されるようになりました。
有機化学は産業の発展にとって大いなる貢献と考えられた時代でしたので、研究も非常に盛んでした。

 

その頃、ココ・シャネルは19世紀頃まで続いていた女性に対する偏見やしきたりといったことに関して非常に強い嫌悪感を持っていました。
そのためには、彼女は香りを使用して女性を解放しようと考えたのです。

 

 

香りで女性を変えるのは大変なことでした

香りを使用することによって、女性の見た目だけでなく心を変えようと必死だった彼女は、幾つもの香水の候補をネルーと呼ばれる調香師に作成させました。
しかし、満足し納得できるものはなかなか出来ませんでした。。
当時の香りは、高価すぎる自然の香料を混ぜたものや、娼婦が身につける商品がほとんどだったのです。
つまり、一般的な人々が身につけるような香りが無かったのです。

 

石鹸の香りや木の爽やかな香りの商品が欲しかったのですが、木の香りや柑橘系の香りは、非常に香りが飛びやすいのが欠点でした。
その為、普段身につける香水にしては価格が高くなってしまうのです。

 

 

選ばれたのが5番

苦労の末生まれたサンプル番号1~5、20~24の番号の商品から、シャネルが選んだのがサンプル番号5番だったので、シャネルの5番という名前になりました。
これがシャネルのNo.5です。

 

その後シャネルの作った香水は、世界で一番有名な女優によって更に名を馳せます。
マリリンモンローに「何を来て寝るのか?」と質問した記者に対して、シャネルの5番と答えたことでセクシーな女性はシャネルの5番を身につけるというイメージが定着したのです。

ココ・シャネルは香水に関しては、こんな名言を残しています。

 

香水を付けない女性に未来はない

 
一見この言葉は、女性の品位や見かけのマナーに関して明言しているようですが実は違います。
シャネルの製品は、普段から身につけてもその女性自身を潰さず、女性らしさを守る製品なのだから自信を持って身につけて欲しいというココ・シャネルの願いや愛情なのです。
ココ・シャネルが愛したのは自由であり、それは当時の常識を破るものでした。
ココ・シャネルはそういった意味で素晴らしい女性であり、世界の香水の歴史を変えたと言っても過言ではないでしょう。

 

アルコールはイスラム生まれ

アルコールが開発されたのは、12世紀のイスラム社会の頃です。
その頃のイスラム圏は、世界で一番化学が進んだ土地でした。

 

イスラム時代には既にビールが存在しており、そのビールを蒸留することによってアルコールを抽出したのでは無いかと考えられます。
当時の研究では、既存のものから物質を分離してどのような役割があるのか、そしてその物質は何に役立てることができるのかということに注目されていました。

 

 

アルコールと錬金術

当時のイスラム社会では錬金術が流行っていました。
錬金術とは金ではない金属を金にする技術。
現在では馬鹿げていることが解っていましたが当時は分子という概念が無かったため真剣に研究が行われたのです。

 

金は当時から非常に高価な物質であり高値で取引されました。
その為、この研究はヨーロッパにまで広がりをみせました。
錬金術に必要だったアルコールの蒸留法作成法もこの頃から一気に広がるようになったのです。
同時にアルコールの他にも、硫酸や王水と言った金属を溶かす酸も広まっていきました。

 

 

香水の誕生

上質なアルコールが広がるようになると、香水のモトといった物ができるようになりました。
これまで香水といえるようなものはありませんでした。
その理由は、香り成分の半分以上は液体に溶かすことは出来ない、もしくは、溶解できる分量が著しく減少してしまっていたからです。

 

香り成分は水に溶けにくいということが当時から経験則で解っていました。
その為、クレオパトラはぶどう酒で香り成分を溶かしていたのです。
アルコールの蒸留方法ができていない当時は、ぶどう酒で溶かす方法しか手段しか無かったのです。

 

 

ぶどう酒の香りが香水の邪魔になる

この方法の欠点は、ぶどう酒の香りが邪魔な場合があっても消すことが出来ないということでした。
また葡萄に含まれている繊維や成分によって、作った香水が劣化して風合いが悪くなるという問題もありました。
さらに見た目も美しくありません。

 

無色のアルコール蒸留方法が確立されるようになると、この状態は一転します。
アルコールはそもそも、油と水を両方溶かす能力を持っているので、水溶性の香り成分と油の香り成分を溶かすことが出来たのです。
そして、葡萄が含まれていないため香りを邪魔する成分もなくなりました。
そして、ボトルに入れても美しく映えるようになりました。

 

 

香水が見た目にも変化した時代

香水が無色になったことはガラス工芸の発展にも貢献しました。
エッセンシャルオイルによって液体を好きな色に着色することができるようになったのので、容器にも拘るようになったのです。
また、アルコール蒸留で香水の製造方法が確立したので、安く香水を作れるようになりました。

 

 

アルコールの革命は続く

アルコールが出来たことによって香りの持続時間を調整し、香りの種類を時間ごとに変えることが可能になりました。
パルファン、オーデパルファン、オーデトワレ、オーデコロンと種類分けできるようになったのです。

アルコールの濃度が高いほど、香りの継続時間が長くなります。
パルファン、オーデパルファンは夜に使用し、オーデトワレ、オーデコロンは昼に使用するのが一般的です。

 

産業革命こそアントワープを香水の町にした出来事

物を作る文化が人ではなくて機械になり、大量の失業者が出た時代にアントワープは香水の町になりました。
それが産業革命です。

産業革命は一見時代の維新のようですが、アントワープには闇の面が降り注ぎました。
それまでのアントワープは、革製品で有名な町で、17世紀では多くの革製品が輸出され使用されていた記録があります。
細かい加工が得意なこの町の製品は非常に好まれていたのです。
作っていた主な商品は靴や馬に使用する鞍など。

 

 

乗るか廃るか

19世紀初頭に始まった産業革命がこの町も直撃しました。
イギリスで始まった産業革命が、大量生産で商品を開発して安く世界中に商品を売り付けるようになったのです。
この時、世界中の国々が考える選択肢は2つしかありませんでした。
イギリスの商品に負けて自国の産業が駄目になる道を選ぶか、イギリスと同様の道を選んでイギリス以上に儲けるかです。
無論フランスは、後者を選びました。

 

 

拍車をかけるフランス革命

さらにフランス特有の事情によってアントワープは追い込まれます。
それは、フランス革命です。
フランス革命によって、市民層や議会が強くなり貴族が糾弾されました。
市民は暮らしを苦しくした貴族に不満を大変持っていたので、貴族文化への駆逐が始まったのです。
貴族の鞍や靴を作っていたアントワープは、そこで多大なダメージを受けました。

 

 

アントワープが選んだ道

そこで考えたられたのが革製品を作るために優れた気候や高地にあるアントワープの周辺の植物を使って何が別産業を興すこと。
香りの成分である植物は高山に自生している植物が多いのです。
皆さんが好きなラベンダーは元々高地のような厳しい環境を好みます。
針葉樹のモミは高地の山でなければ育つことができません。

こうした高山植物を利用して、アントワープはエキスの製造を始めました。
すると、多くの香りを持つ植物の栽培に成功したため今度はそのエキスを利用して商品を作ろうとしました。
そうして産み出されたのが、香水なのです。

 

 

人を育てたアントワープ

ヨーロッパ随一の天然香料の種類を誇るようになったアントワープは、香りを輸出するのではなく、香りを作る人間を育てることを考えるようになりました。
この部分が香り文化を作った他国と異なります。
香りを作る人材を育てるとその人材が国からいなくなることが危惧されるのですが、アントワープは違いました。
アントワープでは、香りを作る人が世界一の環境で学べることを理由に人材離れが非常に少なかったのです。

アントワープには香りの成分が豊富にあるため、現在ではオーダーメイド香水が大変な人気です。
大量生産ではなくその人だけの一番大切なものを作りたいと考えた手間のかかる販売方法でアントワープは香水の町として、世界に知れわたったのです。

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